OVER THE HILL

永遠の半ばを過ぎたお母さんと、小2男児の学習日記(弟付き)

受験生にも社会人にも必要な”割り切る力”

15年以上も前の話だけれど、原宿のラフォーレ多摩美術大学の卒業作品展があり、通りがかりに覗いたことがある。

学生時代から売れっ子になり、今でも現役の某有名女性写真家の作品も出品されていて、その時の彼女のコメントは「良い写真を撮れる人は多いけれど、作品をひとつにまとめ上げられる人は少ない」といったような内容であったと記憶している。

なるほど、純粋な芸術と商業的芸術は求められる能力が違うのだなと思わされた。

大学を卒業後、私はごくごく普通の会社員になった。与えられた仕事をサクサク進めればヨシとされる新人時代を過ぎると、仕事を教える立場になると同時に、”物事を考えてそれをまとめて形にする力”というものが必要とされてくる。

そう、明確な答えのないものに対して自分なりの結論を出し、それを第三者に的確に伝えるという仕事が増えるのだ。仕事も純粋な芸術であったら、自分のコダワリを思う存分に詰め込んだものを時間をかけて作るのも良いかもしれない。でも、仕事はあくまでも明確な目的と共に期限の設定もある。だからある一定の時点で妥協を許したり諦めたりする潔さも時には必要とされる。そう、”割り切る力”である。

無駄に完璧主義的な思考だったり、能力に見合わず理想が高い人には難しい作業でもある。クオリティが高いことは評価されるが、でも締切に間に合わなかったり、要求されたものにそぐわないものが出来上がってはどんな良いものでも意味がない。

必要なのは「その仕事が、期限内に、ある一定以上のクオリティで、完成したかどうか」。実際、「上手なだけの人」ではなくて「仕事が早くてほどほど上手な人」のほうが信頼が高くて仕事が次々に舞い込むものだ。

そしてそれは”受験勉強”にも通じるものがあるんじゃないかとふと思ったりもした。勉強はどの分野でも掘り下げれば掘り下げるほど味が出てきて楽しいものだし、もっと学びたいという欲求が出てくる。純粋な学問は純粋な芸術ととても似ている。でも受験勉強は興味が湧かない分野も網羅しないといけない。とはいえ、全教科を完璧に仕上げる必要はなく、必要な教科を絞り込んで他人より少し点数が取れる程度に仕上げればよいだけだったりする。純粋に学問がしたい生徒も、受験の時期ばかりは割り切る必要がある。そう、特定の学問に対して熱意があるだけじゃダメで、自分の意思とは反しても期限内に必要な科目の学力を必要とされるレベルに引き上げられる生徒が求められている。その割り切る力って社会人になってから結構必要となる能力なんだな、といまさらながら思う。

何でこんなことを考えていたのかというと、この3日間、息子の卒園アルバムの編集に追われていた。1年間撮りためてきた膨大な数の写真を取捨選択してクラスメート全員が平等になるようにし、そしてドラマチックにまとめあげるのはかなりの労力を要する。

私自身、能力に見合わず無駄に理想だけが高い人間の部類だというのは認識しているので、今回は心を無にし、時間を決めて割り切って一気に担当ページを仕上げた。(でも我ながらなかなか良いページが出来たかな、とも思って満足している。)

しかし締め切りはもう目前だというのに、この場に及んでまだ理想を掲げるママさんがいらっしゃって「もっとこうしたら皆が喜んでくれるかも」「こういう写真は本人が嫌がるかもしれない」(←いいえ、ごくごく普通の写真です)「この写真撮りなおせないかな」と言いながら私を含むアルバム委員を混乱させてくれている。そういうコダワリは半年前に言え…割り切って早く自分のページを仕上げてくれ…とは面と向かって言えないので今は遠巻きに見守るしかない。